ぴくしぶより。
分けた7話目後編。鬱のどん底に沈んでいく三成と太陽と日輪コンビ。
アニキ出てこないけど親就前提です。
【スタンド・バイ・ミー_07 病める月、惑う太陽(2)】
自分を呪い、他者を呪い、全てを呪う。
病によって築き上げた過去も、現在の絆も、未来の栄光も何もかも奪われ、絶望の中に閉じこもって一人狂おうとしていた吉継の気持ちがようやくわかった。
この世のあらゆるものから見捨てられた気分。
自分が与えられた痛みを、そっくり叩き返してやりたいと思う気持ち。
自分が奪われ、もう手に入れる事ができないあらゆる素晴らしい物が、その価値を逆転させて汚泥にまみれればいいと願う気持ち。
自分さえいなければ、この世の歯車は幸せに回り続けるのではないかという幻想。
そんな事を思ってしまう自分に対する、この上なく情けなくて惨めな気分。
その全てが無力さという冷たい靄のような憂鬱に沈んで、静かに腐っていくのだ。
憎もうとも三成には何もできない。この闇の中で、吉継は目に見えぬ手を操る不思議な力を開花させた。それは彼に とっての杖であり、新たな刃でもあった。病んだ彼が生きるための力だ。
だが、例え三成が同じ力を手に入れても役には立たない。家康への恨みは忘れられなくても、三成にはあの男を断罪する資格がないのだから。
このまま、誰も知られぬままに朽ちてしまえたら――
咎められることもなく岡豊城の門を迷い出た三成は、半ば復興された田舎道をつらつら辿った。周囲に民家はなく、 あたりは闇に満ちていた。そのせいか、星がギラギラと輝いている。月があまりにも細く欠けているので光をさえぎられる事が無いのだ。
今にも降ってきそうな星空だった。
――不幸よ、さんざめく降り注げ!
戦場でそう叫ぶ友の声を聞いた気がした。彼とて、星空がそのまま降ってくるなど考えていたわけではないだろう。だとしたら、そう言わざるを得ない悲しさというのはどれほど深いものだったのだろうか。
憎しみの炎はどこへ消えてしまったのか、三成は空虚な気分でじっと空を見上げていた。まだ冷たい空気を深く静かに吸い込んだ時、眼の前を何かがさえぎった。
「…………?」
何気なく差しのべた指にひらひらと留まったのは、生まれ時を間違えた迷い蝶だった。
「刑部……?」
口を衝いて出たその名に、三成は力なく首を振った。
「いや……そんなわけがない。貴様は地獄に行ったのだから」
地獄に行った。自分でも不思議なほど、その言葉がすんなり口から出てきた。吉継が『何処にもいない』のではなく『地獄にいる』という認識はさほど三成を恐れさせなかった。
地獄ならきっと自分にも行ける。
「もう行け」
三成は優しく、しかしきっぱりと指を振って蝶を放した。それでも蝶はしばらく三成の傍をひらひら舞った。星明りの下で飛ぶその姿を、三成は美しいと思う。季節を誤ったその命は、番いを見出す事も出来ず、生まれた意味もなく死ぬのだろう。だからこそ綺麗だと思った。死にかけた自分の心を、その美しさで慰めた――それがこの哀れな命の価値だ。自分は美というものに対しては驚くほど乏しい感覚しかもっていないのだから。
反対に三成の友は美的感覚に優れていた。吉継の薦めるものを身に着ければ間違いはなかったので、三成は昔から着る物や身の回りのものに気を使わなければならない状況に陥ると、決まって彼を頼った。
病に堕ちて世の中は醜いものばかりよと皮肉るようになっても、吉継は実際には昔と変わらず美しいものを愛し続けた。思えば、醜い自分には似合わない、釣り合わない――そんな気持ちだったのだろう。口先で貶め遠ざけはしていたが、それでもこの世のあらゆる美しいもの――澄んだ清水を、夜明けと夕映えの色を、雨上がりの蜘蛛の巣を、秋がもたらした木々の朱を、脆い雪の結晶を、その他、人の手が作り出すあらゆる美を、彼は眩しそうに見ていた。愛しそうに。
磨き抜かれた刃のようだと褒めた三成の髪に、焦がれるように触れた。
澄んだ湖水のようだと讃えた三成の瞳を、酔ったように見つめた。
この上ない愛情を込めて。
吉継は三成を通して、憎むべき世界を愛した。
だが、地獄にそんなものはないだろう。さぞ醜さと苦痛にまみれた侘しい暮らしに違いない。
はやく彼のところへ行ってやりたいと思った。仇を取る事も出来ず罪にまみれた自分は、敬愛する秀吉と半兵衛にまみえる事はもはやできない。ならばせめて友の側にいてやりたかった。自分に破滅の星があるとしても、地獄より下には落ちようがない。
頼りなく飛んでいた蝶が夜空に向かって羽ばたくのを、三成はじっと見送った。小さな影が消えた先で、くず星がひとつ、音もなく落ちる。
そういえば、落ちる星は願いを叶えてくれるのだと吉継が言っていた。
三成は願った。
――この苦しみが早く私の命を終わらせてくれますように。
――早く友のいる地獄へ行けますように。
ただそれだけを願った。
◆
毛利元就という男の目は静かだ。冷たいのでもなく、穏やかなのでもなく、ただ静穏だった。
それは独裁者の目でも策士の目でもない。観察者の目なのだ。
彼に真っすぐ見つめられると妙に居心地の悪い気分になるのはそのせいだ。
「石田を襲ったそうだな」
「そういう言い方をされるとだな、毛利……その……」
「恥知らずとは貴様のことだな徳川。貴様はまことあの男の友にふさわしい下衆よ」
「う……」
今日は天気が良いな、と同じ口調で言われ家康は縮こまった。
三成がふらりと出て行った後、家康と元親は膳を整え直して朝まで飲んだ。自分たちは三成を追わない方が良いと言ったのは元親だ。
「戻ってくるさ。あいつは罪を償うことに捕らわれてる……結局ここに戻って来ざるを得ねえんだよ。あんまり遅いようなら野郎どもに呼びに行かせるさ」
とうに許している罪を――むしろあって無きが如しの罪を償おうとする三成に、何か思うところがあるのだろう。元親はそう言って悲しそうに笑っていた。そして、かつて語ったことのある昔話をもう一度繰り返した。
忘れたという建前上一切個人名は出さなかったが、家康はすでに相手の名を知っている。
元親は元就の心を救いたかった。支えたかった。彼を傷つけようとする全てから守りたいと願っていた。それなのに、胸の奥に宿していた恋が出会えた瞬間に破裂した。その身体に触れずにはいられなくなってしまった。逸る余り、心より先に肌に触れて――それから二度と心に触れることはできなかった。
心に触れることを拒まれたのだと、元親は言った。
だからお前には同じ過ちを犯して欲しくない。元親は繰り返し繰り返しそう言った。
家康は、友の思いがありがたかった。間違えれば止めると、そう言ってくれた元親を真の友だと感じた。
夜っぴて飲んで、結局朝一番で家康は出立し、安芸へ向かった。元就と政の話があったからだ。三成がどうなったのかは知らない。あえて知らないようにした。
毛利家が用意した滞在先は、本拠地の吉田郡山城ではなく、大きな港町の宿だった。用が済めばそのまま船で帰れるからというのが元就の弁だった。彼自身は、川を下ってそこまで出向くという。
家康は陸を移動するのが苦でもなかったし、元就の本拠を見てみたかったのだが、相手があからさまに嫌がっているのを感じたので無理強いはしなかった。元就は中国地方出身ではない将を――つまり自分の配下ではない者を吉田郡山城に入れたことは無いという噂もある。相当自分の領域に踏み入られるのが気に食わないのだろう。一時は深い仲だった元親でさえ、毛利領では厳島以外の場所で元就と会った事がないと言っていた。配下の者であろうと、毛利領内の港よりも先に入り込んだら敵対の意志ありとみなし、即座に宣戦布告すると言われてたらしい。
天下人にさえ遠慮というものを見せない男は、眉一筋動かさずに言った。
「まあ、これで石田も長曾我部が信じるに値しないと思い知ったことだろう。かの地に置かれ、いつまで正気が持つか見ものだな」
半ば脅しのようなものだ。少なくとも、家康には元就の意図が分かる。
「毛利……お前はやはり、三成を……」
「石田を長曾我部に預けたのは貴様の判断だ。あの男の側に置いておけば、友を訪ねるを口実にしていつでも逢えるからであろう?」
図星だったが、家康は頷かない。だが、次の言葉には反論せざるを得なかった。
「――だが、石田にとっては長曾我部も仇には違いない。その上長曾我部は貴様に借りがある。いつ売られるか分かったものではない」
「ちょっと待て……三成も言っていたが、ワシは本当にそこまでする気は……!」
「ほう、あの愚か者が気づくとは。大谷が聡い聡いと褒めていたが、単なる世辞ではなかったようだな」
大して心を動かされていない口調で感心してみせると、元就の目が厳しく光った。
「やるかやらぬかの問題ではない。可能性がわずかにあるだけで貴様の言う『絆』とやらはたやすく揺れる。たとえ売らぬとどれほど誓われようが、今回のことで長曾我部は信用置けぬと悟ったはず。石田の抱く憎しみを知りながら、貴様に頼まれて引き合わせた――それは、石田の気持ちよりも友情を重んじるという証。いつ貴様と合わされるかわかったものではないゆえ、心穏やかに過ごせる場所でないと知ったはずよ。長曾我部が信じるに値しないとはそう言う意味だ」
『絆』というものに対し、元就の意見は常に手厳しい。
元就との協力体制を整えるにあたり、家康は彼から四国壊滅の策謀について詳しく聞いていた。元親が忘れると言ったからこそ、家康は聞いておかねばならなかった。毛利元就という男を理解はできないにせよ、誤解したまま天下に組み込むことはできないのだ。
元就の話によると、安芸の小領主から中国の太守へのし上がった彼にとって、あの程度の策謀は少々仕掛けが大げさなだけで日常茶飯事だったという。敵国の主と臣を仲たがいさせて内部から突き崩すのは、自国の損害を最大限に抑え、敵国を最大限に害する手段の一つだ。
どれほど信頼しあっているように見えた主従でさえ、互いに疑心暗鬼に陥り殺しあう――それは、裏切りの可能性を一笑に伏せなかった、相手を完全に信頼しきることのできなかった彼ら自身の弱さが原因だ。元就はそう斬って捨てた。そもそも、両者の信頼を引き裂く事は出来ない、何の二次的な益もないと判断した相手にこの策を用いることは絶対にない、と。
元親も最初は家康を疑っていた。雑賀の横槍さえ入らなければ、元親自身が家康を殺していただろう。それは、二人の友情が所詮その程度のものだったからだ。その程度のものだと、元就が判断したからだ。
元就は長年敵として相対してきた元親のことを良く知っていた。自分を慕う部下たちと、心を交わした友――元親の天秤がどちらに動くのか、元就は読み切っていた。
それを聞かされた家康は、元就が自分を『同じ』だと言った理由がわかった。
元就は『絆』をないがしろにしているわけではない。むしろ謀神と称された彼は誰よりも『絆』というものを熟知している。壊し方を知っているからこそ、決して壊れない『絆』が存在することも知っている。脆い『絆』を周囲に張り巡らせることがいかに危険かということも。
その脆さを知りつつ、切れた『絆』を必死に結び合わそうとしている天下人を、元就は哀れみつつ静かに観察している。
戦など起きなければその方がいい。他国に攻め入る気が無い中国は、防衛に徹するしかない。勝っても得るものが無いのだ。天下が安泰であり、中国が独立していられるのなら天下泰平に手を貸すことはやぶさかではない。
それに、この計算高い夢想家がこの先どうなるのか興味もあった。というか、せっかく自分が相談役になってやったのに壊れたり腐ったりされては非常に不愉快だ。
家康は元就と話しているとき、「まるで説教されているようだな」と笑う事があるが、何がおかしいのかわからない。元就の話は『まるで説教』なのではなく、『まぎれもない説教』だ。
こいつはダメだと見切りをつけるまでは手を入れてやるのが元就の身上である。叩けば錬れる鉄だと期待しているから叩く。どうせ天下人を正面きって叩ける人間など自分以外にいないのだ。家康が耐えかねるというなら、所詮その程度の器である。天下人も元就にとっては駒の一つにすぎない。
茶を一口すすり、元就は問いかけた。
「徳川よ。貴様の望みは何だ? 大谷と石田の絆を引き裂き、石田を手に入れることか? 抵抗する石田に大谷は死んだといったそうだが、それで石田の心が手に入るとでも思ったのか?」
「ど、どこからそれを……」
「誤魔化すな。貴様は石田を愛しているのではない。自分が満たされたいだけだ。石田がどうなろうと、本当は知ったことではないのだろう?」
「毛利、違う……ワシは……本当に、三成を……」
だから三成にも、愛して欲しくて。それは当り前の感情のはずだ。
だが、あの時心の中で黒い炎が燃えた。
今でも恋敵であり続ける吉継を殺したいと思った。
自分を見ようとしない三成から、何もかも奪ってしまいたいと思った。
元就は家康の動揺を見逃さない。
自分は彼の友ではない。甘えを許すつもりはなかった。
「思い違いをするな、徳川。天下人とは日の本の支配者ではない。日の本の政を執り行う責任を負った者だ。何一つ貴様のものになったわけではない。貴様が天下のものとなっただけだ。貴様は天下のために生きるのであって、自分のために生きるのではない――貴様がそれを是と言ったからこそ、我は貴様に力を貸している。よもや忘れてはおるまいな?」
「……忘れてなどいないさ」
現在、元就は天下を覆す手段を持っている。家康が完璧に天下を治めれば、秀吉を殺した大義名分が実体を得る。しかし、恋に迷えばどうなるか。下克上も日の本を乱した戦乱も、支配も、すべては恋に狂ったがゆえ――天下の手綱を手放した家康を、恋慕の情から主を裏切った畜生と罵りその天下を覆すことも不可能ではない。そしてそれは、あながち嘘というわけでもない。三成を豊臣の枷から解放したい――その気持ちがあったのは事実なのだから。
元就は家康に対し、事あるごとにそれを突きつけた。天下が収まっていれば、それを利用して元就は中国を輝かせることができる。しかし、ひとたびそれが乱れれば、彼は躊躇なく牙を剥く。家康の姿を映す鏡のように、元就は厳然とそこに在り続ける。秀吉を倒し、天下を制した家康の正しさを常に問い続けてくる、もう一つの太陽――それが毛利元就だった。
鏡とは対たる存在のこと。自然、家康はもう一人の対である男を想う。
(……三成)
異様な静けさを宿した目。救いを求めて死人に縋りついた声。死にたいと、生まれてくるのではなかったと、生を呪った姿は彼の片割れである吉継に良く似ていた。
外界に対して完全に心を閉ざした者に特有の無感動。
憎悪を外に出すことなく、ただ己の内に冷たく沈殿させる毒の沼。
表面だけは静まり返った、濁った湖水。
そんな姿を見たいのではなかった。ただ、昔のように笑って欲しかった。家康が築いた平和の中で、穏やかに生きて欲しかった。
抱きしめ、触れて、自分だけのものにしたい――だが、そうすれば三成は死ぬだろう。もう二度と笑うこともないだろう。ただひたすら、全てを呪う存在に成り果てる。
それでは意味がない。戦に苦しむ民を救いたいと思ったのと同じくらい、三成を救いたかったのだから。
三成を救えないのなら、民を救えなかったのと同じ事になる。
元就は家康の表情を観察しながら言葉を続けた。
「もう一つ――石田を四国においておけば、貴様と長曾我部の『絆』にもひびが入るぞ。石田と貴様の仲を取り持てば、長曾我部は石田の恨みを買う。わずかに築かれていた信頼も、此度の件で木っ端微塵となっただろう。そのことで長曾我部が貴様に対して遺恨を抱かぬといえるか?」
「……遺恨は、ないな」
「遺恨はな」
「ああ」
その程度で元親が家康を責めるかと言えば、否だ。むしろ、元親は三成の心を解せなかった自分の力不足を責めるはずだ。だが、元親は家康がやり過ぎれば討つと宣言した。それは、正しい友情のためだ。家康が誤るのならば、友として正す――元親の誠意の表れだ。
恋のために無理をすれば、せっかく納まった天下が再び乱れる。それも、民や理想のためではなく、家康の個人的な感情で。そうなれば元就もあっさり家康を見限り、敵に回るだろう。野心を隠して家康に下った者たちも、今が好機と動き出し、再び天下は未曾有の騒乱に叩き込まれる。それは絶対に許されないことだ。家康が秀吉を殺した――その最初の罪を償うことさえできず、新たな罪を重ねるだけだった。
「わかったな徳川。石田は貴様の手の届かぬ所に置くのが最も良い。真実、石田を愛していると言えるなら、遠くに在りし想い人のため、一切の見返りを求めず天下のために身を捧げよ。あの男が穏やかに日々を過ごしている――その報だけを喜びとせよ。それができたなら、我は貴様を真の天下人として認めてやろう」
言葉の意味は明らかだった。元就は三成と吉継を引き合わせるつもりだ。吉継の下でなら、三成は平穏に暮らせる。三成の幸せを望むならそれを甘受しろと言っていた。
家康は肩を落とし、少しだけ恨みを込めて元就を見た。
「なぁ毛利……お前、結構あの二人に肩入れしてるだろう?」
「我は強欲者にも腑抜けにも甘ったれにも我慢がならぬ。腐った芽を育てるほど寛容でもない。屑鉄を叩いて鍛えるほど暇でもない。それだけだ。石田は我が引き取る。手筈はすべてこちらで整えるゆえ、貴様は一切口も手も出すな」
誰が天下人に対してこんな口を利くだろうか。
元就は清々しいほどに正論しか言わない。彼はとうに個人である事をやめている。腹の底でどう思っていようと、それをねじ伏せて国のために行動できるし、家康もそうすべきだと言っていた。
後は、家康がそれを受け入れられるかどうかだ。
家康は天下人になる事を望んだ。それが個を捨てることと同義であるとは思っていないが、少なくともこの件に関しては元就の判断が適切なのは間違いない。
「……わかった。お前に全て任せる。三成に関してワシが手を出すともう、ロクなことにならん」
三成には幸せになって欲しい。その気持ちだけは嘘にしたくない。汚してしまいたくない。
たとえ彼が、自分の手の届かない所にいたとしても、彼が微笑んでいてくれるならそれでいい――そう思えるようになりたかった。
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