ぴくしぶより。
ちょい鬱。
アニキ緑ルートの別の話。吉三で家→三です。
嘘でも偽りでもいいから三成を幸せにしたかった、でも他の人には絶対に渡したくない、そんな我儘な大谷さんの話。
来世で死ぬほど叱られてください。
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【蝶は去りぬ】
ずるりと血塗れた腕が地を這っていた。その様は死に掛けの蝶か、それとも哀しい芋虫か。
二つに割れた輿から長々と続いた血の痕跡は、彼が壊れかけの命を此処まで引きずって来た証だった。
裏切り者め、何故逃げない。這って動けるなら、此方ではなくあちらだろう。
命を拾ったのならば、罪を暴き貴様を弾劾する者から、何故遠ざかろうとしなかった?
何故だ。
「みつ、なり……」
何故、私を顔を見て微笑むのだ。
私は貴様を殺しに来たのに。
裏切り者を、斬りに来たのに。
乾きかけた血が糸を引いて、一寸指が持ち上がる。腕を伸べて、貴様が笑う。
「生きて、おったか……重畳、重畳……」
「刑部!」
がらりと刀が手から滑った。駆け寄り、抱き上げた身体はひどく軽かった。ここに来るまでの間に、中身が全て流れ出してしまったように。
「刑部、刑部、何故……」
何故裏切った。
何故逃げなかった。
何故笑っているのだ。
何故、何故、何故――
「三成よ……羽は揃ったか?」
「刑部、一体何を言っている……?」
この男の言葉はいつでも謎めいていた。私は謎かけも言葉遊びも好きではない。ただ、癖なのだろうと思って放っておいた。つらつらと言霊を並べ立てる嗄れた声が、嫌いではなかったからだ。
こんなに命が流れ出てしまったのに、この男の舌は良く回る。
「徳川がぬしの羽をもいだゆえ、われが籠に入れたのよ……死なぬように、また飛べる日が来るやも知れぬしなァ」
「だから、一体何のことだ! 私の質問に答えろ、刑部ッ!」
思い切りゆすぶってやりたかったが、そうしたら死んでしまう気がして、私はただ叫んだ。
狂ったように名を呼び続ける私には、腕に抱いた男が甘く連ねる呪の言葉が聞こえなかった。
睦言のように囁かれる言霊を消し去るように叫んでも、この男には全く届いていない。
まったく、どこまでも自分勝手な男だ。
嗚呼、それは私も同じか。
貴様を殺さねばならないのに、失いたくないなど。
「もはや飛べるとあらば、自由にしてやろ……三成よ」
己の血で赤く染まった指先が、額に触れる。
ぴちゃりと糸引くその冷たさに泣きたくなった。
*
「なんっ……だ、コリャ」
「蝶……?」
元親と家康は、目の前で起こる光景にただ呆然とするだけだった。
血塗れの吉継を抱いて狂ったように叫び続ける三成に、二人は手を出せずにいたのだ。やがて吉継が三成の額に指で触れ、三成がぴたりと口を噤んだ。
その後に起きた事は、さらに二人の度肝を抜いた。
額から指が離れると、その跡を追うかのように、するすると何匹もの蝶が現れたのだ。
「ぬしは何も持たぬゆえ……これから先、いくらでも幸を手にできようて」
「何をする……やめろ、刑部」
「もう振り返るでない……ただ、未来を愛し、生きよ」
とろとろと甘い吉継の言葉と不安に満ち満ちた三成の声が、戦の跡地に響く。
言葉をなくして見守る家康と元親の周りを、三成から生まれ続ける蝶の群れがひらひら飛び廻った。
その翅には鮮やかに、過去の光景が映し出されている。
戦場がある。城がある。村がある。主が、師が、友が、敵が、無数の翅の中で生きて動き回った。
三成の記憶を翅に写し取って、蝶の群れが舞う。
「解き放たれよ、三成……幸から、憎悪から、それに……われから……ぬしを、縛するものすべて……われがつれて逝くゆえ、な」
「嫌だ! 嫌だ! 忘れたくなどない! 私から■■■■を奪うな!」
三成の記憶は、泣きながら振り回される腕をすり抜ける。
身体中からするり生れ落ちては、掴み止めようとする指を通り抜けてしまう。
「■■■■ッ! やめろ■■■■ッ、貴様ぁッ!」
「恨み言は、なァ……またいずれ、いくらでも聞くゆえ、今はわれの我儘を聞いてくれやれ」
「……■■■■ッ!」
目の前の男の名すら忘れた三成は、終に肩を落として呻いた。
「のちの世でも、必ず私の近くに生まれろ……っ」
「あい、あい……ぬしが望むなら、そうしよか」
三成の身体が力を失って崩れ落ちる。その彼に抱きかかえられていた吉継も、当然もろともに地に投げ出された。
それでも包帯を巻かれた腕は、銀の頭を放さない。もう大した力も残っていないはずなのに、これだけは地に落とすまいと、愛しげに抱きかかえていた。
動かなくなった三成の身体からは、もう何も出てこない。
空っぽになってしまったかのように。
「三成!」
折り重なった二人の下に、家康は駆け寄った。血染めの甲冑に頭を乗せた三成は、ひどく安らかな顔で目を閉じている。赤子のような無垢な寝顔に、家康はふと不吉なものを感じた。
「刑部……お前……」
さらに一歩近づこうとしたとき、三成の背からひときわ大きな蝶が生まれ出た。手の平ほどあるその翅は、哀しいほどに赤い。
それを目にした家康は、唐突に欲しいと思った。
その赤が欲しい。自分のものにしたい。
しかし、手を伸ばす前に蝶は飛んだ。
短い距離をひらり羽ばたいた赤は、吉継の指にとまった。
口元に寄せられた蝶は、ゆっくりと翅を動かしながらくちづけを受ける。
「やれ、業深きことよ……それで地獄に落ちたとしても、これだけは譲れぬわ」
揺らめく翅を見つめて、吉継は引きつるようないつもの笑い声を上げた。
家康は、その赤が何の色かを不意に悟る。
心の臓から流れる、真新しい血の色だ。
「三成よ……再びぬしにまみえたとき、コレは返してやろ」
それまではわれのものよ。誰にもやらぬ。
囁いた吉継が大きく口を開けると、血色の翅の蝶は自らその中に潜り込んだ。
伸びた舌が翅を攫い、鮮やかな色は男の口にぺろりと飲み込まれてしまった。
「刑部……お前は一体……」
薄々答えを知りながら家康は問わずにいられなかった。
目の前で満足そうに嘲う死にかけの男こそ、この場の勝利者だ。
吉継が飲み込んでしまった赤が、どうしようもなく欲しかったのに。
「徳川よ……三成となァ、再び絆でも何でも結ぶがよかろ……三成に幸を与えやれ」
「三成は……」
「忘れた、忘れたァ……何も、ナニも、覚えておらぬ」
やはりそうか。
この男が、全て消してしまったというのか。
立ち尽くす家康の横に元親が並ぶ。腹立ちを隠そうともせず、元親は食って掛かった。
「てめぇ……こいつの記憶を奪ったってのか! 憎しみも何もかんも忘れて、幸せになれってのか! おまえ自身が忘れられてもかまわねぇってのかよ!」
「そうよ」
嘯く声は飄々と、嘘を吐くように真を語る。
「われの望みは三成の幸いのみ……たとえそれが、偽りであったとしても、三成がわれの事を忘れようとも、ただこれが幸せに笑んでおればそれでよい」
――刑部、それは欺瞞だ。
そう弾劾することは家康にはできなかった。
今生で三成と再び絆を結べるなら、嘘でも幻でも構わないと、そう思ってしまったからだ。
「ああ、もっと早うこうしてやれば良かった……すべてうまく行く望みがわずかあったゆえ、あがいてしもうた。苦しませてしもうた……やれ、情けないことよ」
銀の髪を愛しげに撫でる男は、限りない慈しみをこめて呪いのごとき祝福を囁いた。
「罪はすべてわれが持ってゆく……ぬしは穢れなき翼でつかの間、羽ばたけ……その真白な輝き、決して、誰も汚せまい……」
吉継の手がことりと落ちた。
周囲を埋め尽くすように飛んでいたはずの三成の記憶は、淡雪のように消えていた。
亡骸に抱きかかえられた三成は、幼子のように眠りつづける――
*
西軍総大将、石田三成と軍師、大谷吉継は大阪城で死んだ。
やはりというべきか、目覚めた三成は全ての記憶を失っていた。
家康は彼に「佐吉」という名を与えた。
「佐吉」は不器用で生真面目な性格はそのままに、長曾我部元親の元で穏やかに過ごした。
家康とも、再び友となった。
しばらくして、家康は「佐吉」に想いを告げた。
彼はその時になってようやく、吉継の祝福の意味を悟った。
あの、血色の蝶の正体を――何故自分が、あの翅を欲したのかを。
「佐吉」は泣き、笑い、怒り、悲しむ事を知っていた。
この世のあらゆる美と善を愛する事を知っていた。
全ての人々を等しく慈しんだ。
――だが、家康が告げたある感情だけは、終生理解できなかった。
御使いのごとく穢れを知らぬ「佐吉」の心身を、さしもの天下人も汚せなかった。
「佐吉」は全てを愛したが、誰かを愛することはなかった。
「佐吉」は誰のものでもなかった。
「佐吉」は壮健であったが、大阪城が落ちた数年後、眠るように息を引き取った。
死んだ「佐吉」の胸から、透明な翅を持つ蝶が飛び立つのを見た者がいるというが、その真偽は定かではない。
[5回]
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