ぴくしぶより。
鬱にはまる三成。彼の攻撃的思考は周囲に責められる対象がいない場合は自分に向くんじゃないだろうかと思ってる。
大谷さんいませんが吉三です。
【スタンド・バイ・ミー_06 暗夜航路】
闇の中に、ざざぁ、ざざぁと静かな波の音が響いている。この船に乗ってふた月余りが経つ。常に足元が揺れている感覚にも大分慣れてきたところだ。
三成は船べりに立ち、暗い海を見つめていた。
夜空にはどんよりと雲が立ち込め、星も月も見えない。島影もない。元親の海賊船は碇を下ろし、じっと動きを止めていた。甲板に焚かれた篝火が赤々と燃えて、闇の中にぽつんとこの船が浮いているようだ。
三成は、この船と自分はよく似ていると思う。
行くべき先が見つからない。
(私が悪かったのだ……それだけはわかる……)
昔から、いつだって本当に悪いのは自分だ。
吉継が手を汚したのは自分のためだ。三成と交わした約束のためだ。
家康が裏切り、秀吉が殺された日の夜、吉継は三成に誓った。天下分け目の戦いを起こし、必ずや三成を家康の下へ導くと。家康憎しの余り、一人で行こうとした自分をそう言って止めた。
吉継は三成を生かそうとした。いつだって何も考えず死線へまっしぐらに向かう自分の後を追いかけて、守ろうとした。死なせまいとしてきた。
そんな彼に甘えていた。無意識に。それがあまりにも当たり前になりすぎて、感謝することさえ忘れてしまっていた。呼吸しなければ人は死ぬが、空気に感謝するものなどいない。だが、吉継は空気ではなく一人の人間であり、三成の友だった。辛いときも嬉しいときも、いつだって側にいてくれた、三成の片割れだ。
ぼろぼろになった豊臣を建て直し、天下二分の戦に勝つ――そんな無理難題を通してでも三成を死と狂気の淵から遠ざけようとした。そのせいで吉継は汚れたのだ。自分はすでに十分穢れているのだから、多少の汚れなど気にしない。常々彼はそう言っていた。
貴様の言っていた事はこういう意味だったのか刑部?
天下を乱した全ての策謀の黒幕は大谷吉継であり、三成はただ彼に利用された哀れな将――歴史にはそう記されることになる。毛利元就でさえ、徳川の天下に貢献している今は企みの片棒を担いでいた事実さえ抹消されようとしていた。
悪いのは全て大谷吉継ということになっている。吉継の思いがどうであったかなど、誰も知ることはない。
(刑部、それが貴様の望みだとでもいうのか……?)
吉継とて勝算もなく謀略を巡らしたわけではあるまい。しかし、用心深い彼が失敗したときの事を考えていなかったとはいえない。
「石田」
背後からかけられた声に思考を中断され、三成はゆっくりと振り返った。見ると、三成の身元を預かる男が船室から上がってきたところだった。
「今日の不寝番はお前じゃねぇよ。さっさと寝な」
「眠くない」
淡々と拒否する三成に、元親は「しょうがねぇなこいつは」という顔をした。三成の拒食と不眠症には、流石の元親も手を焼いている。最終的には言う事をきくが、必ず一度は拒むのだ。
「お前なぁ……」
説教など聞き飽きている三成は元親を遮り、気になっている事を聞いた。
「それより長曾我部。今夜はもう、進まないのか?」
「ん? ああ……星が見えねぇんじゃ、進みようがねぇよ。タチの悪い潮につかまって同じ所をぐるぐる周っちまってても気づきようがねぇ。ま、晴れるまでの辛抱だな」
「もし晴れなかったら?」
「あん?」
元親はぼそりと呟かれた言葉に眉を上げる。
「このまま悪天候が続き、永遠に星が見えなかったらどうするのだ? いつまでも海原で立ち往生しているのか? それは死ぬのと同じことではないのか?」
三成の暗い眼差しは元親を見てはいなかった。翳りの晴れぬ水晶の瞳は、己の中にある闇をじっと覗き込んでいるようだ。
「あのなぁ……天気は悪くても夜は明ける。陸地がみえりゃ、そっちに向かって進むさ」
「……しるべがなければ、どこへも行けぬのだな」
「まあな、だが……」
航海術について説明を続けようとした元親だったが、途中で諦めた。三成には全く話を聞く気がないと気づいたのだ。元親はため息をつきながら薄い肩をぽんと叩いた。
「石田、眠くなくても横になれ。命令だ」
「命令か」
「ああ」
「そうか」
元親に命じられた三成は、人形のように従った。幽鬼のような足取りで船室に向かい、己に与えられた寝台にもぐりこむ。
現在、三成は罪を償うため元親に従っている。元親は三成を友人と見ているようだが、三成はあくまで元親を主として扱った。元親が死ねと言ってくれれば喜んで死んだだろう。だが、隻眼の海賊はそうしない。眠ろうとしない三成に横になれと命じ、食事をしない三成に食えと命じた。どちらも三成にとっては非常な苦痛なのだが、可能な限り従った。
何も考えず命令に従うのは楽だ――そう感じている自分に気づき、三成は激しい自己嫌悪に陥った。粗末な寝台で身体を丸め、吐き気を催すような惰弱を責めた。
自分はいつだってそうだった。最初は紀之介、次は秀吉様と半兵衛様、そしてまた紀之介――刑部、今は長曾我部か。手を引いてくれるなら、道を示してくれるなら結局誰でもいいのか。言われるがまま、人形のように進むのが自分か。
そこには三成の意志など何処にもない。三成は自分自身の意志で、己を偽ることなく生きてきた、そう思っていた。だが本当は、あの第五天を蔑む資格などない、ただの人形だったのかもしれない。
(だが……刑部があのまま騙してくれていたら、何も知らぬままなら……それはそれで私は幸せだっただろう)
吉継の示してくれた道を、真っ直ぐ駆け抜けるだけでよかった。彼の用意する道ならば安心して行けた。例えどんな苦難が待ち受けようとも、彼の導きの元ならば目を閉じて突き進むことができた。
彼がいなくなっただけでこのザマだ。元親は先の話はしない男だ。今、何をすべきかだけを命じてくる。それでは不安だ。足元しか見えないのでは、同じ所をぐるぐるまわるだけだ。
(刑部はいない……死んだ……)
遺体も見たのだ。大阪城を去る時に。
だが、三成はそれを見せられてもピンと来なかった。戦いのさなかに起こった火事で、ただでさえ病んだ体は焼け爛れていた。かろうじて残った装束や輿の残骸で大谷吉継であると判じられたらしいが、三成にはどうしてもそれが吉継だと思えなかった。
だから、三成の中では彼は『死んだ』のではなく『いなくなった』と認識されている。何度自分に言い聞かせても、『死んだ』という感覚が湧いてこない。
さらに言えば、彼が自分を裏切ったと聞かされて衝撃は受けたが、いまだに吉継を恨みに思う気持ちは湧いてこなかった。それを告げると、元親は「それがいい、忘れちまいな」とどこか寂しげに笑っていた。
忘れる。
忘れることなどできそうにない。
吉継の裏切りも死も、結局は彼が自分を生かすために犠牲になったと言うだけだ。何もかも自分が悪い。謝りたくても吉継にはもう逢えない――もう逢えないということを思うと、心の一部が痺れたように何も感じなくなる。それを実感してしまったら、自分はきっと完全に壊れてしまうのだろう。死んだと思えないのも、きっとそのせいだ。
じっとしていても時は経ち、夜は明け、朝が来る。それでも三成は闇の中に立ち尽くしたまま、手を引いてくれる誰かを待っている。
その誰かとはもちろん、吉継以外あり得なかった。
三成は子供の頃、月のない夜に迷子になった事がある。
他の小姓たちと言い争いになり、激情のまま飛び出してしまったのだ。そして、真っ暗な夜道でふと我に返り、一歩も歩けなくなった。立ち止まっていては賊か獣に殺されるか、凍え死にするしかなかった。それでも怖くて歩けなかった。
そこに迎えに来てくれたのが当時まだ紀之介と名乗っていた吉継だった。誰からも嫌われていた自分を、危険を省みず探してくれたのは彼だけだった。
彼に手を引かれて帰った。吉継はいつでも自分を生へ導いてくれた。人の社会に徹底的に向いてない自分を守り続けた。自分が泥を被ることも厭わず、むしろ泥を被った事を三成に気づかせないようにさえしていた。
この程度なんでもないと言いたげな、涼しい顔で。あるいは、意地悪に話をそらし、誤魔化して。
彼はそう言う男だ。昔からそうだった。そんな彼の強さが好きだった。
病で吉継が崩れかけたとき、三成はその強さが失われてしまうのが怖くて、無理矢理立たせた。
怖れも卑屈も何もかも、腹の底に押し込めて強く生きろと誓わせた。
なんと残酷で傲慢な真似だろうか。自分にはそんなことなどできないくせに。
その証拠に、三成は足を止めてしまっている。
停止とは死だ。生きるということは、歩き続けることだ。秀吉様が、半兵衛様が、刑部が身をもってそう教えてくれた。
だが、愚かな自分には、道が見えない。歩き出せない。
あれからずっと、立ち止まったままだ。
『あれ』とはいつだろうか。
自分はいつから、此処に立ち尽くしていたのだろう?
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