ぴくしぶより。続きです。
【2 右腕と左腕】
夢の中に半兵衛の姿を見てから半月ほど後、元就は大阪に来ていた。豊臣と毛利は緩やかな同盟を組んでいる。定期的に互いの国を訪ね、連絡を取り合っているのだ。今回は毛利が豊臣を訪ねる番――というのは表向きの理由だ。
細々とした決め事などは書状であらかた話し合いが終わっている。顔を合わせるのは、最終的な承諾と腹の探り合いのためだ。
城を訪ねた元就は、半兵衛が臥せっている事を聞いて「やはり」と思った。あの夢はただの夢ではなかったのだ。今までは無理をしてでも働いていた半兵衛が大人しく休んでいる――周囲を誤魔化す余裕すら失って。それが諦め以外の何だというのか。
軍師の伏せる離れは、城の一角にひっそりと存在していた。巨大さの影に隠れるように、豊臣秀吉という輝きを邪魔せぬように。今の豊臣は天下を掴まんとする、日の本で最も巨大な勢力だった。その軍の第二位にある軍師の病床としてはあまりにちっぽけで、卑屈にすら見える。
元就がフンと鼻を鳴らした瞬間、半兵衛の部屋から出てきた男が目ざとく振り向いた。
「何だ貴様は……何がおかしい」
「それはこちらのセリフよ。貴様は誰だ?」
初めて見る顔だった。銀の髪は半兵衛のものとは異なってまっすぐに伸び、鋭い輝きを持っていた。まるで刃のようにも見える。怒りに吊り上がった両目もまた、刃の印象だった。
手には部屋から引き上げてきたらしい桶などを抱えていたが、ただの小姓や近習には見えない。腰に履いた刀を今にも抜かんばかりに殺気を放つその男に、元就は言った。
「いや、貴様の名などどうでもよいわ。我は竹中に話がある」
「なんだと……半兵衛様に何用だ!」
男の殺気がさらに増した。元就は刃が抜き放たれる瞬間に備えて目を細める。
「三成君、落ち着きたまえ」
剣呑な雰囲気に水を差したのは、春のように穏やかな声だった。部屋の障子が開き、柔らかな白い髪の主が顔をのぞかせていた。
「は、半兵衛様ッ!」
「彼は豊臣と同盟している中国の主、毛利元就公だ。客人だよ。待っていたんだ」
三成と呼ばれた男の殺気はたちまち胡散霧消したが、その顔には不服そうな表情が残っていた。
「同盟……秀吉様と対等の立場でですか?」
「そうだ」
頷く半兵衛の声音には、どこか子供に良い含めるような調子があった。わざわざ元就を『公』などと呼んだのも、この男を抑える為だろう。ぐっと口を噤んだ三成から視線を移し、彼は元就に向かって微笑みかける。
「元就公、紹介するよ。彼は石田三成君。秀吉の左腕さ」
「半兵衛様……もったいないお言葉です」
自慢げな軍師と頬を染めて謙虚に恥じ入る男を見比べた元就は、大体の事を把握した。
「フン、左腕か。なるほど、言いえて妙だな」
感情のない声に若干の嘲りが混じっている事を敏感に察したのだろう、三成がギロリと睨んでくる。
「貴様……何がおかしい」
「どうでもよかろう。我は竹中に話がある。貴様は下がるがよい」
「何だと、貴様ァっ!」
「三成君、下がりなさい」
「――……ッ! し、承知いたしました」
半兵衛に窘められた三成は、それでも警戒の姿勢を崩さぬまま去っていった。不承不承といった様子だが、その顔には半兵衛への反発などなく、得体の知れない男を軍師の側に近づけたくないという思いに満ちていた。
「何だあれは。あれほど躾のなっていない駒は見たことがない……いや、主に対する忠節だけは叩き込まれているようだな」
「三成君のあれは、ほとんど病気かな。優しい子なんだけどね、僕らにとっては」
元就は部屋に入ると同時に、半兵衛も床に戻った。元より話すことは多くない。四半刻もかからずに表向きの話は終わった。此処からは世間話に腹の探りあいの時間だと、悪戯っぽく目を輝かせて半兵衛が問いかけてくる。
「ところで元就君。さっきのことだけど、『秀吉の左腕』って言い方、何が面白かったんだい?」
「ああ、あれか……豊臣は右利きなのだろう?」
「そうだね」
半兵衛が頷くと、元就は淡々と続けた。
「右利きの者の左腕は不器用だ。不器用な腕に考える脳みそは必要なく、敵を打ち倒す武力だけがあればいい――そういうことだ。あの石田という男、腕だけは立つのだろう?」
「……三成君は頭のいい子だよ?」
「その言い方からして貴様が頭脳の面で頼っておらぬ事がわかるわ。左腕では右腕の代わりにはならぬ」
厳しい言葉に隠された意味に、半兵衛は気づいたのだろう。青ざめた唇に浮かんでいた微苦笑が消える。
「竹中」
元就に容赦する気はなかった。そもそも、本題はこちらなのだ。
「貴様らは、自分たちが死んだ後の事は考えてあるのか?」
「…………」
今度こそ、半兵衛は沈黙した。
元就は豊臣の中枢にいる人物をあまり知らない。表に出て大きく顔を売っているのは総大将たる豊臣秀吉と軍師の竹中半兵衛だ。その他、才のある者たちも多いのだろうが、二人の影に完全に隠れてしまっている。
三成では半兵衛の変わりにならず、秀吉には子供がなかった。親類の子は何人かいるようだが、彼らに覇王の後は務まらない。豊臣軍の二人は、それほど偉大すぎる存在なのだ。
元就から視線を外した半兵衛は、長い沈黙の後ぼそりと呟いた。
「秀吉は死なないよ」
「脳にまで病が回ったか竹中。貴様と同様、覇王とていつかは死ぬ」
元就に一蹴された半兵衛は、わざとらしく唇を尖らせる。
「……少しは病人を労わろうって気はないのかい、元就君?」
「貴様らの抱いていた夢は大きかった。それは構わぬ。だが、今の貴様はただ夢を見ているだけよ」
その言葉に、意図的にふざけた表情をしていた半兵衛が険しく眉を寄せる。この会話が単なる腹の探りあいではなく、恐らく最初で最後の機会――元就が本音をぶつけてきている事を理解したのだ。
「夢を見るのが……悪いっていうのかい?」
「悪い。貴様は夢を見て歩みを止めた。自分は死のうとも覇王は死なぬと? 笑わせるでないわ。それは、幻想よ。夢を抱いて前に進むこととは根本的に違う。残り僅かな命、夢を見ながら朽ちていくのも良いだろうが、自分がいなくなったあと、その夢が悪夢に代わっても良いと申すか?」
日の本を統べ、やがて世界へ――肥大し続ける夢は、半兵衛の死後、秀吉の死後、泥沼の悪夢に変わるだろう。豊臣の頭脳たる半兵衛が夢を見続けたままでは、それは止められない。
現実から逃げたまま朽ちるか、それとも死ぬまで夢を抱いて歩き続けるか、二つに一つだ。
元就は己に似合わぬ言葉と知りながら言った。
「竹中……貴様には、肩を貸しあい、共に歩む友がいるであろう」
そう言う声に感情はなかった。だが半兵衛は、言葉に含まれる一重の波紋、極微量の羨望を感じ取った。
「秀吉……」
半兵衛は『二人』だった。孤独を選んだ元就とは異なり、常に『彼ら』だった。「我らの夢、我らの理想」と、彼の覇王が言う限り。
久しぶりに胸に燃える炎を感じ、軍師の頬に僅かな赤みが差した。
「フ……君からそんな言葉を聞くなんて。変わったね、元就君」
「感謝はせぬが、貴様らのおかげだと言っておこう。豊臣と戦ったおかげで我は目を醒ますことができた……が、それゆえ貴様の不抜けた姿は見とうない。自分が情けなくなる。ゆえに、塩を送る行為と知りながら、こうして叩き起しに参ったのよ」
表情のない元就の言葉に憤懣を見出したのか、半兵衛はくすりと声を漏らした。
「それは痛そうだ。君の所へやった金吾君から手紙が来たよ。元就君の平手はすごく痛いそうだね」
「あれが不抜けだからよ。よくもあんな豚を寄越してくれたな。貴様の打った手の中で最も屈辱的よ」
嫌悪を隠さない元就に、半兵衛は意地の悪い笑みを浮かべる。
「そこまで言うかい? あれでも一応、秀吉の養子だったことがあるんだよ?」
「それが貴様の罪悪よ。力なき民草であれば許された存在が、下手に地位を得たせいで屑肉と成り下がった。見苦しく泣き叫ぶだけの生き物――我はあれを人と認めぬ。生かしておくのは、あれが豊臣との同盟の証だからよ」
背筋が凍るほど冷たい声に、半兵衛はやれやれと首を振る。
「金吾君にも可哀想な事をしたね。まあ、今更なかったことにする気はないけど」
「貴様と我と、金吾に抱いた感想が異なっていたとは思えぬな。だからこそ我に押し付けたのではないか?」
やんわりとした糾弾に、軍師がひっそりと微笑んだ。死の気配が漂う美貌に、冷たく暗く、それでいて強かな笑みが浮かぶ。肯定の代わりに、半兵衛は言った。
「……最後まで、未来のために、自分できることをしろと? 継ぐ者のない夢なら、僕と秀吉までで納めろと?」
「強さは維持せねばならぬもの。だが、貴様らは急いで強くなりすぎた。どうやって力を維持するかを考えもせずにな」
「後は君に任せた……って言いたい所だけどね」
「ふざけるな。貴様らの夢であろうが」
「だよね……元就君は信用できるけど、信頼はできない。僕らで何とかするしかないか」
肩を竦める半兵衛に、元就は静かに告げた。
「できなければ――醜く膨らんだ貴様らの夢、我が叩き潰す」
「君にできるならね」
青ざめた顔に浮かんだ不敵な表情は、もはや病み衰えてゆく悲運の才子のものではなかった。そこに居たのは、紛れもなく当代一の軍略家、竹中半兵衛だった。
満足した元就は、もはや用はないと立ち上がる。
「さらばだ竹中。もう会うことはあるまい」
「君の言葉……最後の餞として受け取ったよ。礼は言わないよ」
「要らぬ」
そう言い捨て、元就は去った。
*
一人残された半兵衛は、物思いに耽りながら白湯を口にしていたが、すぐにその静寂は破られた。
「半兵衛様!」
どこかで元就が帰還した事を知ったのだろう、三成が飛んできたのだ。心配と苛立ちのない交ぜになった顔は、やはりどこか子供のようだった。
「半兵衛様、あの男が何か無礼を働きませんでしたか!?」
「君は心配性だねぇ……大丈夫だったよ。ありがとう」
「は……」
頭を撫でられた三成は、恥ずかしそうに、嬉しそうに肩を竦めて頬を染める。その様子は、まだ小さな子供だった彼を見出し、寺から引き取ってきた頃から全く変わっていない。三成は変わることなく、むしろますます深く、ただ一途に秀吉と半兵衛を崇めている。
左腕では右腕の代わりにはならぬ――元就の厳しい視線が蘇り、半兵衛は三成に気づかれないようにため息をついた。
(この子はあまりにも秀吉を崇め過ぎている……秀吉を失ったら、立っていられないだろう。まして、秀吉の夢をこの子の細い肩に乗せるなんて残酷にすぎる)
脳裏に三成の友であり、半兵衛の弟子である男――大谷吉継の顔がよぎった。彼ならば、半兵衛の代わりを務める事はできるだろう。秀吉の武は三成が、半兵衛の智は吉継が受け継ぐ――二人を見出したとき、半兵衛の胸によぎったのはそんな未来だったのだ。
だが、吉継もまた病の身となっている。それだけではない。そもそも彼は、三成を守るためだけに豊臣に居るのだ。豊臣が、三成の帰るべき家である限り、吉継は豊臣に尽くす。三成の居場所を守るために。
口で何と言おうとも、偽悪的な態度で隠そうとも、彼自身が気づいていなくとも、吉継がそれ以外考えていないことは最初からわかっていた。半兵衛とて、それを利用するつもりで彼を引き取ったのだ。秀吉と半兵衛が三成を大事にする限り、吉継は二人に従う。だが、豊臣がもはや三成を生かす場として頼れないと判断すれば、吉継はあっさりと豊臣を切り捨てるに違いない。彼は秀吉と半兵衛に恩を感じていようとも、決してその理想に共感しているわけではないのだ。
三成の盲目的な忠誠とて同じこと。彼は親の後を無心について回る幼子のようなものだった。二人の理想をただ崇めるだけで、理解しているとは言い難い。三成の願いは、ただ敬愛する秀吉の刃として生きることだけだ。
そんな彼らに自分たちの夢を託すことなどできようはずがない。彼らを軽んじているのではなく、生きる道が全く違うのだ。
(ああ……僕らの夢を未来に繋ぐことはできないのかな?)
いいようのない切なさに胸を掻き毟られて俯くと、三成が心配そうに覗き込んできた。
「……半兵衛様?」
「ん? なんだい?」
なんでもないよ、と笑顔で示す。
「いえ……ただ、とても悲しげなお顔をされていたので」
そう言う三成の方がよほど悲しそうに見えた。
「無理はなさらないでください。どうか、お体を大事にしてください」
「ああ、ありがとう三成君」
まるっきり親の病を案じる子供そのものの様子に目を細めながら、半兵衛は胸の内で決意を固めていた。
(悪いけど、そうもいかないよ……肩を貸してくれる友がいるだろうと指摘されてはね。それも、よりによって元就君から)
病に蝕まれた体に、最後の火を燃やそう。
(もう歩けないだなんて弱音、秀吉に聞かせたくない――)
歩こう。死ぬまで。
最後の瞬間まで、出来る限りの事を。
*
数ヵ月後、元就はいつもの夢を見ていた。
屍で埋まった赤い沼地を、秀吉がゆっくりと歩いて行く。その背後に、半兵衛が倒れていた。歩いている途中に力尽き倒れたように、前のめりの姿勢で倒れ伏していた。秀吉の道行きを見れば、半兵衛の屍が彼の道となったことがわかる。
死者は地に倒れ、生者が進む道となるのがこの世の理。身をもって友を先へ進ませることは、半兵衛にとってこの上ない誉れだろう。
――ああ、貴様は命尽きるまで歩いたのだな。
目指す未来の姿は違えど、その点は尊敬に値する。
赤い泥土に埋もれていく死者に頷きを送り、元就は再び己の道を歩き出した。
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